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天草縫製実習生たちの声
中国人研修生Aさん

1 私は、2006年の1月まで、中国の縫製工場で働いていました。日本で働きたいと思って,中国の派遣会社に4万元を払い,日本に来ました。4万元は,日本円で70万円くらいです。中国での私の給料は月に1000元くらいだったので、3年分以上になります。このお金は、親戚と親の友人に借りました。また、私が契約に違反したら,保証人になってくれたいとこが15万元も払わないといけません。

2 2006年の4月、私は、フェリーで下関に着きました。到着すると、すぐに社長からパスポートと印鑑を取りあげられました。そして,社長の車で,天草の工場に連れて行かれ,その日の夕方6時から夜の9時まで仕事をさせられました。私は、長時間の移動でとても疲れていたのですが、断ることはできませんでした。

3 私の仕事は,女性用下着の縫製です。スキールでの仕事は、本当に酷いものでした。中国で社長から面接を受けたときには、働くのは午前8時半から午後5時半までと聞いていたのですが、実際には夜10時頃まで,遅いときには午前3時まで働かされました。厳しいノルマが終わらないと,残業代も出ませんでした。社長が怖い顔で,テーブルを叩きながら,「ノルマは多くない」「バカ」などと怒鳴るので,仕事をやめることはできませんでした。
 休みは、月に1回くらいで、決まった日というわけではありませんでした。休みの日だからといって、自由に外出することもできませんでした。

4 これほど休みなく長時間働いても,給料は月に6万円くらいしかもらっていません。残業代は時給300円しか出ません。社長には「バカだから給料が安い」などとよく言われました。
 給料は、銀行の通帳に入るようになっていて、貯金をさせられていました。この通帳は、来日してすぐ、社長に銀行に連れて行かれて作らされたもので、私の印鑑と一緒に社長がずっと管理していました。そして、社長は,この通帳と印鑑を使って,私の給料を使い込んでいたのです。多いときには25万円も使われました。

5 私たちの寮は,一部屋に12人でした。仕事から寮にもどると,次の日の昼食を作らないといけませんでした。お風呂は一人用です。12人で交代で入っていました。私たちは,ゆっくり眠ることもできず,仕事の疲れがたまって,とても辛かったです。

6 去年の8月には,実習生の3人が倒れました。
 耳から縫製作業の機械の音が離れないで,眠れなくなった人もいました。
 寮を逃げだす人もいました。私も逃げ出したかったのですが、派遣会社に支払うためにした借金を返せなくなるので、逃げることはできませんでした。大きな借金をかかえたまま中国に帰されるのが一番恐ろしいのです。

7 協同組合の人や理事長からは,
 「仕事をしたくないなら,中国に帰ってください」
 「あなたたちが帰っても,すぐ別の中国人が来る」
 「あなたたちの要求が,日本人と同じなら,中国人を使う必要なかったじゃない」
などと言われ,とてもショックを受けました。私たちは,日本人よりも安い給料で,長い時間働かせるために,中国から雇われたのです。スキールや協同組合は,私たちの尊厳を踏みにじっています。絶対に許せません。

8 私たちが労働組合に入ってからの交渉でも,協同組合は少しのお金を示すだけで,帰国しろと言うばかりでした。
JITCOや福岡の入管に,協同組合を指導してくれるよう,お願いにも行きましたが,何もしてくれませんでした。
 私たちは,もう,裁判所に訴えるしかありませんでした。とてもひどい目にあいながらも,一生懸命働いてきました。その分の給料は絶対に払ってもらわないといけませんし、私たちを苦しめたことのつぐないもしてもらわないといけません。

9 私たちは,希望をもって日本に来たのに,こんなに辛い目にあわせられるとは思ってもいませんでした。裁判官の方々には、だまされて日本に来て、機械のように働かされていた私たちの被害を、是非分かってもらいたいと思います。

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中国人研修生Bさん

1 私は,2005年10月に中国の派遣会社に登録料4万元を支払いました。4万元は日本円にして70万円くらいになります。私は給料を月に1000元くらいしかもらっていなかったので、親戚から借金をして派遣会社に登録料を支払いました。日本語も派遣会社に月3000元の授業料を支払って、3ヶ月間の研修を受けました。

2 2006年4月に,天草市の○○に研修生として派遣されました。日本に来た日に,○○の社長からパスポートを取り上げられました。天草の工場に着くと,いきなり午後6時から午後9時まで働からされました。○○では日本語を習ったことはありませんでした。○○にいる間は、他の研修生や実習生と一緒に女性物下着を縫製する仕事をさせられ続けました。

3 ○○の仕事は中国にいたときよりもひどくて,まるで奴隷のようでした。午前8時半から午後10時頃まで仕事をさせられました。遅いときには午前3時まで働かされました。
 社長からは、毎日ノルマが課されており、ノルマを達成しないと残業代は出せないと言われ、体調が悪くても課されたノルマを達成するまで仕事をやめることは許されませんでした。
 仕事がなかなか終わらないときには、社長はすごい形相で時にはテーブルを叩きながら、「努力してないから終わらない」「バカ」「悪い」と怒鳴られました。私は、社長に殴られるかもしれないと思い,怖くて一生懸命に働きました。何時間も残業をしてその日のノルマをやっと達成すると,翌日には,また、たくさんのノルマが課されました。

4 給料は月に6万円程度の給料しかもらえませんでした。残業代は1時間300円しかでませんでした。しかも、社長が私の通帳を作って、給料は強制的に貯金させられました。通帳と私の印鑑は社長が持っていたので、私たちの給料は自由に使うことは許されませんでした。社長は「バカだから給料が安い」「努力してないからだ」とよく言われました。

5 仕事が終わって、やっと寮に戻ってきても、すぐには眠ることはできません。というのは、寮では1部屋12人で生活していました。寮には、1人用のお風呂があるだけだったので、1人ずつ交代でお風呂を使わなければなりませんでした。
 私たちの食事は自分で作らなければならなかったので、仕事が終わってから次の日の食事まで作っておかなければなりませんでした。
 お風呂に入るのと、ご飯を作るのとで、寝るのが毎日遅くなり,深夜2時や3時まで残業したときは,寝るのは朝方でした。それでも翌朝は8時半から働かなければならず、仕事中は疲れと眠気でとてもつらかったです。次の日は少しでも寝ていたかったので、みんな朝ご飯は食べていませんでした。

6 休みも月に1日か2日くらいしかありませんでした。しかも、その休みは仕事の進み具合で突然、社長から「明日は休み」と告げられるというものでした。せっかくの休日も決して自由にできるわけではなく,いつも監視されていました。

7 日本に来てすぐに、社長が私名義の銀行口座を作り、給料はその口座に振り込まれ、強制的に貯金させられました。しかも、給料を振り込む通帳と私の印鑑は社長が直接管理していました。私たちが自分の通帳を見ることができるのは、月に1回の給料日に昼休みの1時間だけでした。その給料も、社長に勝手に使われていました。

 8 研修生は働いてはいけなかったということは,聞いたことがありませんでした。きちんと研修を受けたというのであれば,お給料を貰えないことも分かります。でも、私達は,毎日,○○の社長に怒られながら,ただノルマを達成するために働いていました。協同組合も、私たちを安い給料で働け、いやなら帰国させると言いました。JITCOが会社に来て私たちの話を聞いてくれたことも一度もありませんでした。
 働いてもお給料を貰えないことには納得できません。私達が働いていたことをきちんと認めて下さい。

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中国人研修生Cさん

1 私は、日本に来る前は、中国の青島の縫製工場で働いていました。当時の収入は月700元くらいでした。日本に来るため、2005年の10月頃に、中国の派遣会社に、保証金として4万元を払いました。4万元は日本の60万円くらいです。働いていた工場の社長からお金を借りたり、兄や親戚に保証人になってもらいました。ほかにも、日本語の勉強のために、派遣会社に2750元払いました。

2 日本には、2006年7月に来ました。日本に着いたその日に、小国の協同組合に連れて行かれ、パスポートと印鑑を取り上げられました。10日ほどして、社長が迎えに来て、天草の○○に連れて行かれ、その翌日から下着の縫製をさせられました。仕事は、朝は8時半から、夜は10時までで、昼ご飯と晩ご飯の時間を除いて、休憩時間は全くありませんでした。働き始めて2,3日すると、ノルマが課されるようになりました。ノルマが終わらないと仕事を終わることは許されず、午前3時まで残業したこともあります。やっとノルマを終わらせた後も、商品の出来が悪いとやり直しをさせられました。

3 そして、残業が終わった後も、工場の片付けや、翌日の食事まで夜中に作らなければなりませんでした。それに、研修生は12人で共同生活をしていたのですが、シャワーが1つしかなく、交代で使わなければならなったので、寝るのが毎日遅くなりました。私は、寝不足で、目が開けられなくなるくらい疲れていましたが、ミスをすると社長に怒られるので、がまんして働き続けました。

4 また、休日も、多いときでも月に4〜5日、忙しいときは月に1日しかありませんでした。その休みも、不定期で、いつも前日の夜10時頃に、社長から「明日休み」と告げられました。そして、社長は私たちが日本人と付き合うのを許さず、休みのときも、私たちを日本人と会わせないようにしていました。また、私たちに来た手紙も渡してくれませんでした。

5 こうして働いても、給料は1か月6万円、残業代は1時間300円くらいでした。しかもそのお金も自由に使うことはできませんでした。社長は、私の知らないうちに、銀行口座を作り、私たちの給料を勝手に管理していました。私たちが通帳を見ることができるのは、月に1度、10分間だけでした。そして、昨年5月に通帳を見ると、25万円が勝手に引き出されていて、社長が使い込んでいたことが分かりました。

6 私は、社長の指示で働いていましたが、社長はたびたび、私たちの働きが遅いと言っては、「中国人は悪い」「あなたたちは努力してない」「バカ」「アホ」と大声で怒りました。そして、年に1回、外部の人が検査に来るのですが、そのときだけ社長は研修生の代表の人だけにパスポートを返し、「残業はしていない」「休日はある」と答えるように指導していました。

7 昨年の9月、協同組合の人が私たちを迎えに来て、理事長から「○○の社長には支払い能力がない。他の会社を探してみる」と言われました。しかし翌日になると、「あなたたちを受け入れる会社はないよ。中国に帰ってほしい。20分で荷物をまとめなさい」と言われたので、私たちは走って施設の外に逃げました。

8 現在、私たちは、△△さんという方の厚意でアパートに住まわせてもらっています。そして、カンパから月1万円を生活費としていただきながら、なんとか生活をしています。食費を切り詰めながらのぎりぎりの生活です。

9 私は日本に来て、縫製の技術について教えてもらったことは一度もありません。日本語も、協同組合にいた10日間勉強しただけで、工場で働き始めてからは、全く教えてもらえませんでした。私たちはただ、社長に怒鳴られながら、朝から晩まで機械のように働かされていたのです。
 私は、私の自由を奪ってひどい扱いをした会社に対する怒りが収まりません。私が働いて稼いだはずのお金をもらえずに、このまますませることは絶対にできません。


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